前田 試延 先生

「葺合高校の魅力」

 神戸独自のアイデアと産業が百花繚乱の時代、人工島完成記念として行われた地方都市博「ポートピア’81」の翌年、私は竹内校長先生に葺合高校に呼んでいただきました。文部省JETの制度もなく外国人講師が普通は高校に1人もいなかった時代の外国人講師の常勤登用やコース制導入など竹内先生は「特色ある学校作り」に情熱を注いでおられ、葺合高校関連の記事がたびたび新聞に掲載されていました。卒業式で今も表彰されている「フェニックス賞」の個人表彰も、筒台会、筒友会の財政支援を得てその年から始まったと記憶しております。
それ以来34年間、私は葺合高校でお世話になり、うち29年間は学級担任をさせていただきました。 2016年3月に61歳で退職し、1年間の充電期間の後も時間講師として葺合高校で再びお世話になっております。「いつまで葺合高校にしがみついてるんや」と言われそうですね。以下感じたことを書き綴ります。
1.同僚の先生方の凄さ
  自分が英語科なので英語の先生方のことしか言えませんが、赴任当時おられた先生方の中には兵庫県を代表するような素晴らしい先生方がたくさんおられ、県下一斉模試作成、ヒアリング問題作成委員会など兵庫県高校英語研究会で活躍されていました。また近畿中高大英語研究会では中村先生と英系2回生(高橋学年)が2年生の時の公開授業で当時の文部省佐々木視学官を大絶賛させたり、その2年後玉井先生と英系生徒10名による「英語の公開ディベイト」で注目される、など多くの先生方が授業実践で兵庫県の英語教育を牽引しておられました。普段の授業の準備や部活指導だけでも忙しいのに外部の仕事にまで力を注がれていたのは「県立高校の先生方と張り合っていける力がないと葺合の生き残る道はない」という判断の下、教員の資質向上に努めておられたからだと思います。
2.若手を育てる場
赴任して1か月後「若手教員の研修」ということで英語科の若手や重鎮など先生方7~8人が集まりました。その場でその年の同志社大学商学部の入試問題が手渡され、「前田さん、ここ訳してみて」と言われ、しどろもどろで訳したのを覚えています。中学校から転勤してきた私の英語力を試されたのでしょう。 その時は冷汗タラタラでしたが、それは自分の目指すべき位置が可視化された瞬間で、その問題用紙は退職するまで自分の英語力を試す指標として大切に保管し、時々読み返していました。
3.教員の研修に事欠かない葺高の環境
  34年前、葺高独自の英語コースが始まり「どのようにして従来の授業と違う授業をするか」は大きな課題でした。そこで英語コースを実践した学年が次に英語コースを受け持つ学年に向けての情報交換をする、という形で「英語科伝達講習会」が3月末に行われました。それが英語教師全員、英語の全科目「1年間の総括の会」としてまる1日かけて毎年行われるようになり、英語科創設後、国際科創設後にも必要な会となって35年後の今も続いています。ご存知のように、文科省指定平成17年度から3年間の”Super English Language High School”, そして平成26年度より5年間の”Super Global High School” の大々的研修活動もこの会の延長上にあるように思います。
4.楽しい学年団 
  32年間は学年所属でした。行事や指導の方向など率直に意見交換できる場も、冗談の飛び交う雰囲気も大好きで、また歴史や文学、栄養、健康面など、いろいろ学べて楽しい学年団でした。
5.生徒たちの素晴らしい活躍と受け継がれる伝統
 藤本先生指導の下、校内大会から全国大会に至るスピーチコンテストや県6連覇のディベイト大会。少林寺拳法部やダンス部の全国大会出場。パーラメントディベイト世界大会2位、など今も葺高は輝かしい成果を残していますね。それらは普段の授業や課外の活動に生徒の皆さんが真剣に取り組んでいたことの証しで、授業でも英語のプレゼンテーションなど発表の場を経験する度に成長していく姿を見られることは教師として本当にやり甲斐を感じるものでした。「伝統」という言葉はよく耳にしますが、その輝かしい成果を残した生徒たちが、志のある後輩たちを直接指導できる形こそまさに葺高の伝統ですね。
6.優しい生徒たち
  「学級担任は毎日生徒たちと直に接して大変でしょう。」とよく言われましたが、大変と思うのは通知簿の所見を書いたり、調査書を作成する時くらいで、あとは楽しいことが大半でした。30年前私の次男が誕生した時、クラスのみんなが2枚の色紙にイラストやメッセージを書いてくれたこと、卒業式の時にくれた花束や、ビデオ、色紙のメッセージなど担当学年の卒業式の日はたいてい感激の涙にあふれていました。
私の退職前後の年にクラス会や同窓会に招待してくれた英語科1回生(高橋学年)「中村先生と一緒の楽しい時間でした」とその学年「同窓会幹事の首藤さんありがとう」、98年卒(坂東学年)の英系クラス「1人1人のメッセージ入りの写真集と万年筆大切にします」、国際科4回生(佐々木学年)「国際科2クラスが一緒の会は素敵ですね。」、国際科7回生(前中学年)3-2「皆さんからのメッセージ写真集を時々読み返しています」の皆さん、ありがとうございました。
また個人や小グループでは、20年ぶりに会って以来ことある毎に手紙やメールをくれる旧姓Oさんと、同級生で写真と寄せ書きを送ってくれた東京在住の英語科4回生(油谷学年)の皆さん、私の離任の日の朝花束を持って来てくれたフリーライターN君とその後お家に招待してくれた(結婚式にも招待してくれた)H君夫妻と筒台会役員T君など友達5名の英系2回生(高橋学年)、建て替えが終わった学校に挨拶に来てくれた英語科1回生(高橋学年)、国際科10回生(定時学年)の皆さん、お子さん達を連れて学校に来てくれた坂東学年の英系女子5人、子供を連れてよく会いに来てくれる旧姓SさんやMさんYさんなど国際科1回生(山下学年)、東京に行った時夕食に付き合ってくれた国際科4回生(佐々木学年)3名、など。長年葺合に勤めて本当に良かったと思う嬉しい出来事でした。
  けれど嬉しい出来事ばかりではありません。2015年2月、大阪大学卒業式の40日前、Oさんが交通事故で亡くなりました。ご両親の「娘の生きた証を少しでもほしい。」という思いに寄り添って、その後毎年何度かご両親に会いに行ったり、赴任先の東京を案内したりしている国際科7回生(前中学年)。「深い悲しみの中でご両親がどれだけ癒されているでしょう。」ここでも葺高生の優しさが感じられました。
最後に
「葺高時代は楽しかった」、「葺高大好き」と言う卒業生が多いことも葺高の特徴でしょうね。私の場合、自分の母校に不満があったわけではないけれどそこまでの思い入れはありません。葺合高校で「気心の知れた仲間といることの楽しさ」「意識や能力の高い友達からの刺激」「授業の内容の濃さや教師とのいい関係」などの積み重ねがそう思わせているのでしょう。教師という立場ですが、私もよく似た意味で「葺高が大好き」なんです。大好きな皆さんとの再会を楽しみにしています。

「98年の卒業生(坂東学年)のクラス会で」      「部屋の壁に飾っている葺高生からの色紙」

「国際科7回生(前中学年)3年2組の生徒たちと」   「最後に担任した英系2-4(定時学年)の生徒たちと」


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影山 正憲 先生

「思い出多き葺合高校」


昭和49年卒葺高還暦同窓会

1、 学園紛争→服装自由化→制服制定

昭和45年葺合高校に赴任。当時、大学紛争の影響が高校にも及び、葺合高校も前年、座り込みや封鎖、卒業式反対の式場乱入事件等々があった。制服が廃止され自由化へ、男子の頭髪も自由化へと大きな変化を迎えていた。他校では荒れていく学校が見られたが、葺合高校は校長先生や教頭先生をはじめ、教員の努力と良識ある生徒たちの自主規制や保護者の協力が相俟って、明るく自由で活気に満ちた学校へと成長していった。度重なる職員会議、生徒との話し合等いろいろありました。

2、 体育

・生徒数―――生徒数増加の時期、旧体育館前はテニスコート2面。入口前に仮設教室が建てられていた。男子に比べ女子の人数が少なかったため、男子66人をまとめて教えたことも賑やかそのものだった。

・神戸市学校体操―――生徒の体力を鍛える目的で作られた神戸市学校体操。1年の1学期は体操専門の私が気合を入れて当たる。正しい動きを覚え70歳・80歳になっても効果のある体操をしてほしい。「前後屈」:(前屈したら股の中へ上半身を全部放り込め!放り込んで 放り込んで!!)生徒全員が声をそろえて「ホーリコンデ ホーリコンデ!!」とやっていた。

・器械体操―――鉄棒(高・低)蹴上がり、平行棒(高・低)蹴上がり、あん馬2台、四つ足(左右振り、前入れ後抜き)マット(ロングマット2本)前方転回、4班に分け、10分ローテ。初めに各種目の要点と陥りやすい欠点を説明、友達同士がお互い注意して見て助言できるように伝える。1種目に時間をかけると厭きてくるのが、10分で種目移動するとまた新しい気分になるので、1時間アッという間にすぎ、楽しい授業だった。高鉄棒の蹴上がりが出来たと喜ぶ者、できない子が、あん馬が意外とうまくでき、10点を目指して放課後も練習していた。

・2時間連続授業―――家庭科は女子のみ、男子は体操。(家庭科の都合で2時間連続)これを利用して、摩耶山天上寺まで往復走。着順記録の為スターターは他の先生か体育委員に頼み一足先に出発し、帰りも生徒に頼み校門で記録する。ところが、なかなか帰ってこない生徒が時々いた「近道しようと脇道に入ったら道に迷いました」またある時は暗くなってやっと帰ってきた、本人も疲れており、こちらも叱る気力もなくホッとしたこともある。昨年、同窓会の時「〇〇君は摩耶ケーブルで先に上がっていましたよ」唖然として言葉も出ない、いろいろやってくれていたんだ!!

・裸で大コース3周―――3学期は準備体操後、上半身裸になり大コースを3周走ってから授業に入った。粉雪の舞う日は教師自ら裸になり一緒に走る。この為、生徒もさぼることなく一斉に脱いで走る。あるひ、部屋の奥に隠れたのを発見したので、1周で中止し、服を着させサッカーの授業に。部屋横からチョコチョコ顔を出しているが、出てくれば裸だからばれる、招き寄せ、5周走らせ授業へ。この時から人数を数えることにして、部屋に隠れていないのに足りない、バックネット裏か一段低い南門の壁際だ、またまた先頭を止めてサッカーに変更してしばらく放っておいて、風邪をひかせてもいけないので呼び寄せて5周走らせる、毎回こんなのがいるから楽しい。

3、 担当

私は37年間で担任を受け持ったのは、たった2年間だけ。葺合高校の2年目(昭和46年)1年9組の担任。担任業務は初めてのことばかり、無我夢中で1年が終了しました。合格なのか不合格なのかわかりません。続いて2年4組、初めて教室に入る時、生徒はどんな気持ちで自分を迎えるのだろうとふと不安になり、ドアーを開け1歩教室に踏み込んだ時「アッ 影山先生! 嬉しい!!」と1年9組で受け持った中川さんの声。一気に幸せホルモンが分泌、全員が歓迎してくれていると勘違いして、1年間楽しく過ごせた。3年の担任は断った、生徒の進路先は無関心だったので、徹底指導はできないとの思いからだ。彼らが卒業した後、中川さんから2年4組のクラス会の連絡があり、卒業後の同窓会は3年の時のクラスだと思い込んでいたのでビックリした。会では「2年4組は良かった」「先生に会えて嬉しい」と喜ばせてくれた。

毎年、中川さんが世話をしてくれていたが、勤めの関係で難しくなった。その時「これからは俺がヤル、永世幹事だ、いいな!」と北村君。その内、他のクラスの者も同席するようになり、遂には学年全体の同窓会へ。昭和28年には「還暦同窓会」が開かれた。毎年招待を受け、未だに葺合高校とつながれている。担当冥利とはこのことか!!


昭和49年卒葺高還暦同窓会

1974年卒業アルバムより
 「スキー合宿、2年4組力作のかまくら車座に座り、紅茶で乾杯

4、 その他

 ・部活動―――放課後は体操部顧問として毎日、土・日曜日も体育館に入り浸りだった、厳しい練習、合宿、試合、ケガ等々、部員たちとのいろいろなことが思い出される。

 ・生徒指導―――体育教師=生徒指導係りとの考えは全国同じかと思う、2年間の担任以外は殆ど指導部に所属。運動部長→生徒指導担当→保健主事→最後の8年間は指導部長を務めた。担任たちが生徒と仲良くしているのを横目に見乍ら、鬼の影山を演じ、目を光らし続けてきた。しかし、指導部に配属されて来られた優秀な先生方や担任集団、学校生活に情熱を燃やす生徒たちに助けられ、また他校に比べれば、問題行動の殆ど起きない葺合高校だったお陰で、19年間を大過なく過ごせた。

   只々、感謝あるのみです。本当に有難うございました。

  最後に、皆々様のご健勝と葺合高校の益々のご発展をお祈り申し上げます。






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前 中  猛先生

「葺合高校と私」

 私が葺合高校に赴任した昭和61年は(第10代校長)竹内 静夫校長最後の年、英語コース4年目、「英語科」1期生を迎えた,葺合高校英語教育が隆盛期をまさに始めんとする時でした。英語教育を頑張りたいのなら、葺合高校へ行くべきだといろいろな先輩にアドバイスをいただいていました。葺合高校の英語の先生方は、教室はもちろん職員室においても、英語を使ってコミュニケーションを取っているという噂を耳にし,少し腰が引けていましたが,縁あって転勤という運びになりました。「さあ,頑張るぞ」と心に誓い,初めて葺合高校の校門をくぐったのを覚えています。


葺合高校に勤め始めて,まず感じたことは,「生き生き感」でした。職員室は入口が4か所、東西南北どこからでも入れるようになっており、休み時間や昼休み、放課後には生徒で溢れていました。とにかく活気があり、生徒たちは生き生きとしていました。先生方は夜8時ごろまでワイワイ談笑を交えながら仕事をされていました。生徒たちが帰っても,職員室は活気で溢れていたのです。


「英語科」には十人近くの帰国子女がいました。外国人講師との打ち合わせはもちろん英語ですね。先輩からは「『ティームティーチング』の授業は外国人講師に任せるのではなく,我々が主導権を取って2人で協力して授業を進めること」と釘を刺されていました。英語教員の一人としてしっかりと役立たなければならないというプレッシャーを強く感じながら毎日を過ごしていたことを思い出します。


あれから24年間を葺合高校でお世話になりました。20代後半から50代前半の働き盛りと言われるこの時期を葺合高校で教師として送れたことを幸せに思います。

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球技大会で総合優勝 教室で乾杯  ある秋の日の放課後 中庭にて

 春は新入生歓迎遠足です。会場が甲山公園から総合運動公園に移りましたが,生徒会主催でブラスバンドの演奏や有志による応援団演技が懐かしいですね。甲山での最後の行事,先生と生徒が入り混じり興じるフォークダンスは楽しかったですね。文化祭『葺高祭』での3年生の演劇部,ESS部,吹奏楽部,筝曲部,有志バンドの演技・演奏は思い出に残る名場面がたくさんあります。3年生の各クラスの舞台演技は年々質が上がり,最後の3年生のクラス演技は圧巻で心揺さぶられました。


秋は,応援合戦,クラス対抗リレーなどで盛り上がりをみせた体育大会です。私の葺合高校最後の学年が卒業の年の体育大会で,学年優勝もしていないのに,全生徒が私を胴上げしてくれました。嬉しくて涙が出そうでした。そして,なんといっても修学旅行ですね。スキー修学旅行では生徒たちといろいろな思い出作りができました。平成13年,「英語科」を改編させた「国際科」立ち上げと同時に,海外修学旅行を始めることになりました。目的地をどこにするかいろいろと論争した結果,タイ王国に決まりました。他文化に触れることの素晴らしさと重要さを感じましたし,生徒たちにも大好評だったと思います。それまでに至る準備は大変でしたけれどね。その後タイ王国の情勢が悪化したことから台湾に目的地を変えました。台中一中高校に学校訪問したときの熱烈歓迎を今も鮮明に覚えています。予定していた通りには事が運ばなかったのですが,両校生徒たちの「その時を大事にしたい,楽しみたい」という積極的な姿勢が全てを大成功に導いたのです。


葺合高校で送った24年間をひとつひとつ振り返るに,しんどいと思うことがたくさんありました。やめたいと思うことも幾度かありました。しかし,今から考えるとやり甲斐があったし,いろいろなことが学べたし,楽しいことや嬉しいこともたくさんありました。「国際科」の立ち上げ,外国人講師常勤で6人配置、第2,3LL教室設置、セルハイなどいろいろと苦労の種が続きましたが,それだからこそ頑張ってこれたと思います。葺合高校での敬愛すべき諸先輩,一緒に苦楽を共にした仲間,そしてなにより素敵で可愛い生徒たちとの出会いは,私の一生の宝物です。進化し続ける葺合高校のなお一層の発展を心底祈っています。

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3年2組卒業式       高校3年生の秋 京都郊外学習にて




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坂東 忠義先生

「夏の海」

 高校三年生の夏休みのある日、私は母に「勉強しに学校に行ってくるわ。」と言い残して、葺合高校に行った。ダラダラ続く暑い坂道を登りながら「なんで学校まで来たんやろ。」と内心後悔した。

 学校に着くと、とたんに蝉の鳴き声がうるさいほど耳に入ってきた。グランドの方からは野球部の元気のいい掛け声が聞こえてきた。薄暗い職員室に立ち寄って、鍵を借りて三階の教室に入ると、パット窓の外の青色が目に飛び込んできた。外には青い空に白い雲がゆったりと流れ、真正面の視線の先には、碧く輝く海とそれを取り巻く泉南の山々の稜線が空との境を分けていた。急いで窓を開けるとさわやかな風がさっと流れ込んできて、汗だくの頬をなでていった。

 私は教室の机をいくつか窓際にベットのように並べて、そこに寝転がった。こうやって海を見ていると、ゆったりと幸せな気分になってきて、日ごろの鬱屈した思いも吹っ飛ぶような気持になった。そのままの姿勢で英語の本を見ていたが、そぐに寝込んでしまった。目を覚ますと、黒板に「下校時間が過ぎています。戸締りをして下校してください」という文字が遠慮がちに書かれてあった。「しまった!勉強もしないで、こんな所に寝転んで、ぶざまな姿を下級生に見せてしまったかなあ」と幾分恥ずかしい気もしたが、それよりも元気をもらった満足感に浸って学校を後にした。

 あれから五十数年、私は今でも葺合高校にいます。大学卒業後、教師になった私は、中学校、御影工業高校を経て、葺合高校に舞い戻ってききて十年ばかり国語を教え、ハンドボール部を作り、部員の皆と泣き、喜んだのを良い思い出として心の中に残っています。神港高を最後に定年退職したあと、再び葺合高校から声がかかり、現在は時間講師をしています。私は葺合高校のおかげで幸せな人生をおくれたと感謝しています。

 今、葺合高校は全面改装をして大きく様変わりしています。グランドを前にして、五階建ての校舎が大きくそびえ、室内はすべてエアコンが完備していて、生徒たちは快適な学生生活を楽しんでいます。校舎が他に三棟建ち、玄関ホールもゆったりとスペースをとって、現代的なたたずまいになりました。私たちがいた頃の葺合高校の面影はほとんどなくなって、フェニックスがシンボルとして残っているくらいで、青い海も微かにしか見えなくなってしまいました。

 今、葺合高校で学んでいる生徒たちは皆、明るくて、屈託がなく、フレンドリーです。勉強もよく努力し、分からない所があれば先生方に気軽に質問している姿を職員室や廊下でよく見かけます。彼らの姿勢は私たちの時代のそれと比べて決して勝るとも劣るものではありません。私が生徒たちの応援ができるのもあとわずかですが、精いっぱい頑張っています。

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久住 勉先生

「私の葺合高校」

 葺合高校で21年間(退職後の講師を含めて22年間)お世話になりました。20年以上と言えば普通はとっても長い時間ですが私にとっては本当に短い時間でした。目の前の生徒たちと夢中で暮らすうちに、あっという間に時が過ぎ去ってしまいました。

 着任した1年目、田阪学年の2年9組の担任になりました。食堂の隣にあり冬はとても寒いHR教室でした。最初の頃の葺高生の印象はというと、服装などの外見に問題のある生徒が(当時は男子は学生服、夏はブルーのカッターシャツ)言葉遣いが丁寧でとても真面目だったりして驚きました。それまでの経験(中学校、御影工業、神戸商業)では外見と中身が一致していたので葺合とのギャップに戸惑ったことを憶えています。

 最初の行事は西宮にある甲山での一年生の歓迎遠足でした。音楽の梶原先生のアコーデオンでの歌唱指導やフォークダンスを鮮明に憶えています。現在は総合運動公園で実施されていますが、応援団の服装や内容は昔と変わらず受け継がれていると思います。夏休みにはクラス会をやりました(私のクラスは以前から、夏は淡路島で海水浴、春は姫路城でお花見と決めていたので)。それが当日は台風がやってきて大あらしで明石から淡路島への高速艇が欠航となり、明石に集合したものの中止・解散しようと思いましたが、みんなにせがまれ山陽電車に乗って林崎海岸に行くことになりました。強風と砂嵐の中でのビーチバレーと海水浴は、今では本当に懐かしい思い出です。
田坂学年(2年9組)台風の中で夏のクラス会
 また夏休みといえば六甲山学舎での勉強合宿もありました。停電・テレビから白煙事件、トイレ事件などいろんな出来事があり(私も車ごと谷へ転落したりしました)、六甲山学舎は閉鎖されましたが勉強合宿は場所や中身を変えながら現在も実施されています。私は勉強合宿にずっと連続して参加しましたが、葺合高校にとってやはり大切な行事の一つだと思います。
久住学年(3年)嵐山遠足 3年の先生方と
 思い出を語ればきりがないのでこれぐらいにして、あらためて葺合での生活をふり返ると、葺高生は明るく活発でちょっぴり自信がなく、そしてみんな仲良しでした。生徒と先生の距離が年をおって近くなり対話が多くなりました。憩いの森ではいつも質問する生徒や談笑する生徒と先生の姿が見られました。生徒の頑張りを教師が励まし、また教師の応援に生徒が応え、たがいに心を通わせながら現在の葺合高校が形成されていったと感じます。最近も葺合高校に行く機会があり、出会った生徒たちが笑顔で大きな声で「こんにちは!」と挨拶してくれて、少し安心しました。それはその生徒が自分が通っている葺合高校に本当に満足している証だと思ったからです。
田坂学年(2年9組)放課後クラスの女子達と(写真 最前列の左はミュージカル女優になった浜野千春さん)
 毎朝、阪急電車の車窓から一瞬で通り過ぎる葺合高校の新校舎の姿を眺めながら、これからもずっと「葺合がんばれ」と声援を送り続けたいと思います。







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本條雅代先生(H4~H27)

葺合高校の思い出



 平成27年の春、退職をいたしました。かねてから、担当する3年生と一緒に卒業したいとの思いから、定年には1年早かったのですが、決断しました。私の教員生活36年中、23年間を葺合高校でお世話になりました。長いようで、またあっという間のようにも感じます。学年に19年間、進路部に4年間所属いたしました。進路部はプレハブの第2職員室でしたので、寒暖の差が厳しく、心身ともに鍛えられました。教科は国語で現代文・古文漢文・国語表現でしたが、最近は古文を教えることが多かったように思います。部活動では、22年間、茶本先生となぎなた部の顧問をさせてもらい、近畿大会や全国大会の引率も経験させていただきました。

 兵庫商業高校から転勤してきたときは、2年生に配属されました。学年主任は田阪先生で、2年生は9組までありました。それから8クラス、7クラスと減っていったのですが、昨年から学級数が増えて、来年には全学年9クラスと聞いています。葺合高校では、7回修学旅行に行きました。3回はスキー、1回はタイ、3回は台湾です。中でも印象に残っているのは、平成17年度のタイです。学校訪問先で交流するために、なぎなた部は防具や、なぎなたを手分けして持っていきました。当時は男子部員もいましたが、学年主任の佐々木先生にも1部スーツケースに入れてもらい、大荷物となりました。向こうの舞台では、私たちの演技の後、現地の生徒にも体験してもらい、拍手を受けたときは、苦労して持って行った甲斐があったと皆で喜びました。その夜のピマーイ遺跡での生徒の民族舞踊、葺合の生徒もホームステイ先で数名衣装を着せてもらって参加しました。本当に幻想的でした。乗車したバスが途中で故障して乗り換えるなどアクシデントもありましたが、無事全員で帰ってくることができました。その後、タイでは一時政情が不安定となり、行き先は台湾へ変更になりましたが、学年全員で行った2回のタイ旅行の1回に参加できたことは、貴重な経験です。



 また、私の手元には8冊の卒業アルバムがあります。担任や副担任として学年に入り、苦楽をともにした生徒や先生方との思い出が詰まっています。現在、校舎が建て替えられつつあります。アルバムの中の風景はもうありませんが、私の心の中には、2階の渡り廊下から見下ろした中庭や、運動場横の石段に座って見上げた桜の木、式典や文化祭、集会の度に集まった講堂、4階の図書室から見た神戸港の夜景、古いけれど清潔な教室、水漏れした除湿機、安くておいしかった食堂、風通しのよすぎる第2体育館‥‥数え切れないほどあります。在職中に新校舎の完成を見届けられなかったことは残念ですが、一神戸市民として、葺合高校の新たな歴史を見つめて参りたいと思います。23年間葺合高校の一員であったことは何物にも代えがたい私の宝物です。このような原稿を書く機会を与えてくださいましてありがとうございました。最後になりましたが、葺合高校の益々のご発展をお祈り申し上げます。
1992(平成4年)2学年の先生方と1993(平成5年)教室にて






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田阪義英 先生(S57~H10、H21~H23)

私の葺合高校

 私が葺合高校でお世話になったのは、それまで7年間勤務していた須磨高校から葺合に赴任したのが昭和57年4月。その後平成10年3月末に転勤するまでの16年間。さらに、平成21年4月第20代校長として赴任し、定年を迎えた平成23年3月末までの3年間。計19年にも亘ってしまいました。私の教員生活は27年ですからその半分以上の年数を葺合でお世話になりました。17年もお世話になりますと、やはりその間思い出に残る生徒たちや出来事も多くなっています。
 本来はその一番に挙げるべきは校長時代の校舎現地全面建て替えの決意でしょうが、今回は教員時代のことを想起したいと思います。
 その最初は何と言っても六甲山学舎での勉強合宿です。私が赴任したころは理系が1週間、文系が3泊4日の期間だったと思います。参加した生徒たちの夜昼問わず勉強する奮闘ぶりに、強い刺激を受けたものです。とりわけ合宿最終日前夜は徹夜を覚悟で只管参考書やプリントと格闘する姿に、教員の方も一緒に徹夜することもありました。私の場合は、学校での補習や部活動の指導もありましたので、朝学舎で起床し、すぐにケーブル・市バスを利用し、学校で行われている午前の補習、午後からの部活動指導、それが終われば夕食までにまた市バス・ケーブルを乗り継ぎ学舎まで。そして夜は古文の授業。今から考えるとなんとしんどいことをしていたのか、今の年齢ではとても体が持たないと感じられることが、まだその当時は30代、気力も旺盛であったのでしょう。楽しさの方が勝っていたように思います。
 その学舎については、その後庶務部長時代には厨房の温水化、シャワーの温水化など充実を目指しましたが、何分借地代の高騰によりついに地主の財産区に返還されてしまいました。当時は六甲山学舎のように学校単独で所有する(その建設には多くの生徒たちの手でなされています)150名規模の合宿所はまだまだ少なく、葺合高校の自慢の一つでもありました。学舎取り壊しとともにまずは私の思い出の一つが壊れていきました。
 次には第2体育館での部活指導の思い出です。
 私の赴任したころの第2体育館は、雨が降れば天井から雨漏りし、床には水たまりができ、中では生徒たちが練習していようとお構いなしでハトが我が物顔で飛び交い、床はいたるところハトのフンだらけ。さらには床板が跳ね上がり、端が欠け、はだしの剣道部員がそこに指を突っ込んでしまい、骨折するなど、取り壊されても文句も言えないありさまで、施設台帳には記載されない(と当時聞かされていた)ような代物でした。しかしながらそのような老いさらばえた建物でしたが、私たち剣道部・なぎなた部・体操部の部員や教員にとっては、葺合高校に自分が存在した確かな証となる建物であったと確信しています。
 私個人でいえば、生徒たちが帰宅した後、学校近くに住む兄弟子を呼び、そこから自分の稽古が始まりました。今では電気代が嵩むと管理職から叱られるところでしょうが、9時くらいまで2人だけの稽古に励みました。時には吹雪で雪が体育館内に吹き込んでくる中での稽古もありました。私の剣道は第2体育館に育てられたと思っています。卒業生たちも同様で、私の定年の年の夏8月、赴任当時の生徒から転勤時在籍していた生徒まで約60名が集まってくれ、その大半が防具をつけて一緒に稽古をしてくれましたが、思いは皆同じでした。この卒業生たちとのつながりも第2体育館が作ってくれたものです。この育ての親ともいえる体育館も今は取り壊され、その姿はありません。
 さらに思い出すものは歴代の校長先生方が植えられら木々、旧神戸高等商業学校から引き継がれら品々、旧キャンパスが醸し出していた風情。力一杯チョークを使いすぎて字が消えないとみなさんからお叱りを受けた黒板。
 このように「私の葺合高校」は、校舎建て替えとともに遠くに行ってしまいました。
 しかし、新時代を迎える葺合高校には新しい時代にふさわしい器が必要です。まして70有余年の歴史を刻んできた筒台の地こそ、存分に葺合高校の活力と魅力を発揮できるできる器であると確信しています。今新校舎の完成まであと一息のところまで来ているようです。建設途中の段階の今でも中学生やその保護者の方々から葺合高校をあこがれる嬉しい声をたくさん耳にします。喜ばしいことだと感謝しています。また誇らしくも感じます。
校長在職中は筒台会を通して卒業生のみなさんに多大なご支援をいただきました。時には無理なお願いを申し上げたこともあったかと思います。やはり結束力の強い筒台会です。卒業生のみなさんお一人お一人の支えのお蔭をもって教員や生徒たちは建て替え中の様々な支障を乗り越え、近年にない活躍を見せてくれています。葺合高校の堅実な歩みに逞しさを覚えます。
 最後になりましたがこの紙面をお借りして、みなさん方のこれまでのご支援に感謝申し上げるとともに、これからも良きパートナーとして葺合高校90年そして100年と歴史をともに歩んでいただけますようお願い申し上げます。


「現在勤務の神戸市シルバーカレッジのホールで新入生歓迎のパネルをバックにして」





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高田 俊 先生

人生の大転機



私は大学卒業後教員生活を36年間(普通の人は38年間)過ごしました。師範学校を卒業前に大学を受験したら、合格しましたので、当時の担当の先生に相談したら「大學へ行った方がいいのではないか」と言われ、行くことにしました。その結果、2年間の学齢オーバーになりました。勤務の内訳は中学校2校で11年と、葺合高校で4半世紀の25年間です。通勤には初めはJR朝霧駅、後に舞子駅から灘駅まで行き、灘駅から学校までのコースでした。
 昭和40年の3月末にお世話になる葺合高校の校長先生に挨拶に出かけました。その時の清水校長から「君は名前の通り背は高いし、ちょうどいいから陸上競技部の顧問をしてくれ」と言われました。いま改めて考えてみると、私の人生の大転換がこの時に始まったと思います。葺合高校に転任後、陸上競技は全く知らない私でしたが、副顧問として練習や競技会に出かけるたび少しずつではありましたが、陸上競技が解るようになっていきました。その時の顧問は長距離競走では全国でも屈指の青木先生が主顧問をしていました。昭和40年の全国インターハイは大分で行われ、1600mリレーで優勝しました。なんとか1年が終わりかけたとき、青木先生は関西大学へ転勤されることになりました。せっかく慣れかけたばかりで残念ですが止むを得ません。
 翌年は前に顧問をしておられた先生が正顧問をし、私は副顧問をしました。初めはいやいやながらやっていましたが、部員のためにはある程度腹を決めて、頑張ってやらなければいけないと思い、気を引き締めてやることにしました。練習と競技会で週末はほとんどつぶれます。部員の休曜日はほとんど月曜日になります。高校に行けば大学時代にしていた研究の続きができると思い、転任しましたが、今ではそれは夢となって消えてしまいました。こんな生活の繰り返しではありましたが、4年後の昭和43年の全国インターハイが広島で行われ、400mで昭和40年以来の2度目の優勝を勝ち取りました。全国インターハイには何度も出かけましたが、優勝したのは2回だけでした。こんな生活を続けているうちに、高体連陸上競技部の常任委員になり、また兵庫陸上競技協会と神戸市陸上競技協会の監事に選ばれたりして、陸上競技界とは切っても切れない状態になってしまいました。
 現在では神戸市で陸上競技大会を実施するときは神戸総合運動公園陸上競技場を使用していますが、かつては王子陸上競技場や県立明石公園陸上競技場を中心に大会が実施されていました。両陸上競技場はともに交通の便がいい場所にありますので、大変利用しやすかったです。今では王子陸上競技場はなくなり、明石公園陸上競技場は使い勝手が悪くなってしまい、ほとんどの大会は神戸総合運動公園陸上競技場での実施になってしまいました。長い間関わっていますと、競技場も変わります。阪神大震災がなければ、王子陸上競技場は地下を駐車場にして大きく様変わりするはずでした。だが、震災のために他にしなければならないところが多く生じ、当初のプランは立ち消えになりました。
 平成17年に岡山のももたろうスタジアムで国体がありました。その時の私は栄誉ある「秩父宮賞」を受賞し、10月24日に行われた表彰式に出席しました。もらったバッジを見ると、「1677」の数字が刻まれていました。おそらく1677人目の受賞者ということだと思います。宿舎に帰ったら、県の陸上競技協会の幹部の諸氏が一緒にお祝いをしてくれ、楽しい夕食をとり1泊して帰宅しました。受賞者に相応しい生活をしなければと思っています。
 最近では神戸市陸上競技協会が主管する大会にだけ審番に出かけ、以前に比べると、出かける回数は非常に少なくなりました。その分だけ、自分の時間が増えたので、自分の体力を考えて、ほぼ毎日1時間半程度ですが周辺を歩いています。男性の平均寿命を超えて、まさに80代の峠を越えようとする年になり、周囲には迷惑をかけずに済むように、ひたすら「健康」を考える日々になりました。
 最後になりましたが、葺合高校のますますの発展を祈念しながら筆を置きます。






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小澤輝郎 先生

英語の葺高



 昭和44~45年頃全国の高校に吹き荒れた学園紛争の余波がまだ残っている昭和48年に、私は葺合高校に着任した。その時当時の安田善四郎校長から“神戸は国際都市で外国人の活躍が盛んだ、国際語として通用する英語の教育を葺合高校から始めて欲しい。”と言われた。たまたまこの年、第二回の学習指導要綱の改定があり、テーマとしての“基礎/基本の定着と内容の充実”のもと、 1-基本から発展へ 2-内容の多岐拡大  等が挙げられた。 英語教師の私はこれを文法に基づく英文和訳・和文英訳から、コミュニケーション英語への発展と思った。“模倣/応用から創造へ”“型から入って型からでる”当時世界を駆け巡っていた「パラダイムシフト」と言う言葉に新鮮な魅力を感じた。 工業科/商業科/等があるならば、外国語科があってもおかしくはない。葺合高校に英語科を作って、今までの読み/書き/文法のみならず、自由に聞き話せるコミュニケーション可能の英語教育を行い、世界に通用する生徒を育てようと決心した。
 丁度その時、神戸市内の高校から選抜された六人の高校生を連れて、友好親善を深める為、姉妹都市シアトルを訪問するチャンスを与えられた。彼らはそれぞれ高校生のいる家庭にホームステイして、ワシントン州内の各高校の生徒会長のリーダー養成の夏季合宿研修に1週間参加した。出発前全く会話のできなかった六人が僅か一ヶ月余りの間に自由に英語でコミュニケーションが出来るようになったのには驚いた。 中/高/大と10年間英語を勉強して会話が出来ない日本の英語教育を改善するヒントに気がついた。英語が話されている環境の中に生徒を置く事、つまり、英語の授業は日本語を使わないで英語でやればよい。そうすれば、1週間に12時間は英語を聞く話す環境が出来ると思った。まず英語の環境の中に自分を置くための環境作りから始めた。
 当時私の友人のカナディアン・アカデミー(CA)のDr.クレッセル先生と奥さんのウイルマー・クレッセル小学校校長先生の協力を得て、教員の夏期英語合宿研修を計画した。夏期休暇中は無人となるCAの教室とドミトリーを利用した1週間の英語合宿を行い、クレッセル夫妻その他外国人教師/講師の講義/講演・質疑応答、参加者の3分間スピーチ・1時間スピーチ、ディベイト、スタンツ、バズトーク、隠し芸、歌、体操、バスケットボール、ミニオリンピック、等々朝から夜まで1日中英語ばかり、日本語を一言でも喋ればペナルテイ、寝言も英語で、の英語漬けの1週間で参加者のコミュニケーション能力の飛躍的進歩にはクレッセル夫妻も驚かれた。この合宿には神戸市教育委員会の協力も得て市内の中学/高校にも働きかけ定員40名の先生方があちこちから参加された。当時葺合高校の二宮尊志先生(前神戸大学客員準教授)、を中心に中村耕二先生(現甲南大学教授)、玉井健先生(現神戸市外国語大学教授)の葺合高校の3羽烏が英語科主任であった私のコンセプトを理解して流暢な英語を駆使して、プログラム/司会/渉外/世話/等研修運営の柱になって、葺合高校主導のこの研修は大きな成果を挙げ、内外から高く評価された。参加の先生方はそれぞれの中学校/高等学校へ戻って、英語で英語の授業が行われた。この英語合宿研修は爾来(じらい)毎年行われ、神戸市の学校の英語教育に大きく貢献した。
 コミュニケーション英語(CE)の環境作りに自信/確信を得て、神田民枝校長の理解のもと、英語コースを作り、毎日夜遅くまで四人でCEのカリキュラム/シラバス等の研究を重ね、本格的にCEの授業を発展させた。国語/社会/数学/理科/体操/音楽/等の先生も授業に出てくる名詞等を英語で言われたり、インバウンドやアウトバウンドの留学生の協力もあった。第一期の生徒1クラス40人中38人が卒業までに英検二級に合格して協会から表彰され、成果が証明された事は大きな喜びだった。さらに上記三先生に続いて、若手の前田試延先生/前仲猛先生/茶本卓子先生/等に着任してもらって、“英語を英語で”の足固めを強くした。平成21年第六回の学習指導要綱で、曾(かっ)ての英語の科目「英語1」「英語2」「英語3」ご「コミュニケーション英語1」「コミュニケーション英語2」「コミュニケーション英語3」と変わり“英語の授業は英語で”と言われるようになったが、本校では30数年前に既に嚆矢(ゆうし)を放っている。
 現在“英語の葺合高校”と兵庫県は勿論、全国的にも高く評価されているのを、見聞きする度に“葺合高校のCE”をめざして頑張った、若い六人の先生方、並びに理解と後援を受けた校長先生方を懐かしく思い出す。




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中村耕二 先生


△葺合高校のホーム・ルーム(20代の中村耕二先生)


葺合から世界へ



 葺合高校は私にとって青春そのものでした。1974年から19年間担任として勤務させていただきました。数えきれないほどの素晴らしい生徒さんや先生方との出逢いがあり、その一つ一つの出逢いが私の人生の宝物です。人との出逢いで人生は豊かになり、別れで人生は深まります。恩師のような先輩の先生方や学び続ける多くの生徒さんにも恵まれました。葺合高校での忘れられない思い出を少し綴ってみます。
 1970年代は大学校紛争の影響を受けた学校環境の中、深い教育愛と教育理念で葺合を立て直そうとなさる当時の安田善四郎校長先生や神田民枝校長先生の姿勢に心打たれ、とにかく生徒と向き合って頑張ろうと思いました。放課後は国体代表選手の本田康二先生の卓越した指導の下、テニスコートで夢中になって生徒と乱打をしたり、ESSクラブを復活させて英語のスピーチやディスカッションを指導したり、学習意欲のある100人を超える3年生を集めて英語の補習授業にも燃えました。何をやっても熱心に応えてくれる葺高生が大好きでした。当時、教育人類学者トーマス・ローリン氏(スタンフォード大学名誉教授)が長期に渡り葺合高校の教育を視察され、日本研究の名著であるJapan’s High Schoolを執筆され、米国人の目から見た葺合高校の自主・自律の教育が世界に報告されました。
 1980年代に入り竹内静夫校長先生が着任されてからの7年間は二宮尊志先生、玉井健先生をはじめ多くの英語の先生方と、英語コース・英語科の設置のために、公開授業をしました。1986年に近畿中・高・大の英語研究会で文部省の視学官や県の指導主事の前での公開授業をした時はとても緊張しました。交換留学生のジュリーさんや普通科英語コース2年5組の皆さんの惜しみない協力に支えられ、なんとか無事に終わりました。また、英語科が設置された時の最初の担任として貴重な経験をしました。英語力のある生徒が多く、1年生なのに、“What is the objective of this class?”「この授業の目的は何ですか。」と流暢な英語で尋ねられ、驚きと感動の中で英語教師としての第二の試練が始まりました。英語はあくまで伝達手段として世界や人類の問題について生徒と学び続けなければと思いました。
 教師は十分な準備と指導法や教材の共有が必須であり、独自の英語科入試の作問も重なり、英語教師の力が問われました。その結果、毎年学年末には英語教員全員が1年間の授業内容を発表し、より良い授業法を求めて互いに学び合う伝達講習会が始まりました。授業観察と相互批判、そしてこの英語科の伝達講習会は今も合宿の形で継続されているとお聞きしております。
 甲南大学に転勤してから、葺合を一層誇りに思うことがあります。新入生は英語基礎学力試験で全学部レベル別クラスに編成されます。毎年1年生のクラスに目を輝かせて英語で自己表現できる学生がいます。そのほとんどが葺合高校出身者であり、現役の先生方の努力の賜物だと思います。その中の一人である高本沙耶さんが、文部省のセルハイに選定された普通科英語クラスの公開授業のDVDを持ってきてくれました。その公開授業を見て、涙が止まりませんでした。現役の先生方がここまで生徒を育てられたのかと感慨無量でした。この公開授業の中でシオラレオンの子供について英語で発表した高本さんは、現在神戸大学大学院国際協力研究科で活躍し、アフリカでの現地調査を大学生に報告してくれました。
 最近では、日本で学ぶ欧米からの交換学生30名を葺合高校に3回ほど引率しました。いつも、葺合の学生が自主的に授業見学をリードしてくれて、授業に参加したり部活動を見学した留学生は多くを学びました。葺合高校の教育に感化され、数名が文部省のJETとして現在日本の公立学校に勤務しております。まさに竹内静夫校長先生が常に力説された、「自主・創造・世界の人たれ」の荘厳な教育を葺合高校の生徒と先生方から学びました。
 最後に、今年の正月に英語科で担任をした女子バレー部の真崎恵美子さんから教えられたことがあります。真崎さんは高校生の時から正義感が強い学生でした。彼女は卒業後、大学で経済学を学び、国連AIDS機関で働き、その後米国のカリフォルニア大学で医療経済学の博士号を取得しました。世界銀行WB勤務を経て、南アジアの貧困解消、エイズ撲滅のためにマニラに本部のあるアジア開発銀行(ADB)ですでに6年間勤務しております。数十億円の途上国援助のプロジェクトリーダーをしています。別れ際に彼女が言いました。「私が今、南アジア・アフリカの貧困と向き合って働ける原点は葺合高校の前田試延先生の英語の授業でルーマニアの孤児やマザーテレサの愛を英語で学んだからです。耕二先生からは貧困の敵はigonorance (無知)とindiffernce (無関心)だと学びました。しかし、南アジア・アフリカの現地で貧困と直接関わる現実の中で、貧困問題は人間の正義の問題だと思います。」彼女の言葉 “It’s a matter of justice.” には脱帽しました。明日からまたマニラで頑張りますと言った彼女の笑顔が素敵でした。
 葺合高校の多くの卒業生は私を遥かに乗り越え、自主の人、創造の人、世界の人として、それぞれの分野で他者のためにがんばっています。私ももう5年間、未来に羽ばたく若い学生のために、頑張りたいと思います。

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入江一恵 先生


1年9組クラス会

△ スキー合宿   △ 人気多会

葺合高校の思い出

 私が葺合高校にお世話になったのは1976年から1985年までの9年間でした。考えてみると54年間の教員生活の1/6ということですが、高校勤務としては最後の学校ということもあり、心に残る思い出で今も胸が熱くなります。赴任した最初の3年間はクラス担任としてその後の6年間は庶務部長というお役でした。わずか3クラスの経験ですが、いずれも個性的で毎日がハラハラドキドキでした。特に最初のクラス1年9組は、西館1階で、教室の窓から庭の植え込みに手が届くような離れ小島、秋にはざくろがはじけ、すすきが夕日に照らされ金色に映えるのどかな光景にうっとりすることもありました。当時、女子のみの家庭科教師だった私は男子との接点が少ないことを考え、クラス経営に班活動をとりいれました。班ノ―トを書き、毎週木曜日に被服室の大きなテーブルを囲んで昼食をとりながら班長会議でおしゃべりをするというものでした。班ノ―トは各班にまかせることでユニークな発想をねらいましたがリレー式に小説を書くという班も現れたりしてそのノートは震災まで私の手許に保管していました。現在、世界的ジャズピアニストとして活躍している「小曽根真」もクラスにおり、ホームルームで音楽室をお借りして「小曽根のピアノを聞く会」というのをやったりしました。ピアノのキ―に彼の指先が触れた時、私の身体の中を走った感動は今も鮮烈に覚えております。 今でも1年9組3班の会は続いており、今年の1月にも私の「兵庫県社会賞」受賞を祝ってサプライズクラス会をしてくれました。2年4組の思い出はなんといってもスキー合宿でした。事前の教師集団の緊張は、そのまま生徒に伝わり、問題行動を起こすかもしれないと当事者自身、自信がもてなく、出発前夜の夜中、私に電話でおべんとうを作ってきてほしいと依頼。彼は不安な気持ちを担任に訴えたいということだったのでしょう。現地では何事もなく私はいつ見ても転んでばかりと笑われていました。
 先生たちとのおつきあいでは助けられ、励まされました。当時は昭和5年生まれが多く昭和一桁生まれの先生にお声をかけて「人気多会」なるものをつくり、そのお世話もしました。当時のメンバーで物故者になった方もあり、楽しい写真を見る度に心が沈みます。その後短大で16年、そして現在、明舞団地再生に向けてのNPO活動をたちあげて10年の月日が流れました。その間無事過ごせたのは葺合が私を育ててくれたおかげと思っております。ありがとう。
 新しい校舎が建ち、私の脳裏に焼き付いている葺合が変わることは、ちょっとさびしい気もしますが、さらに飛躍し、発展することを念じております。










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濱田小夜子 先生

△スキー合宿で分宿見回りの時(87.2)  △体育大会の救護所で(84.9)      △保健体育で

葺合高校の思い出(心に残った生徒たち)

 私は昭和58年から平成10年まで15年間葺合高校で勤めました。小学校、中学校の養護教育を経験して本校に赴任しました。初めての高校の印象は“大人なんだなぁ”ということでした。しかし、まだまだ大人ではありませんでした。迷える子羊そのものでした。公務分掌では指導部保健管理を担当し、主に保健室で生徒たちと接していました。そこで印象に残っていることをいくつか書いてみました。

 *保健室最多来客者の生徒です。教室で貧血、めまいなどで良く倒れ、受診の結果は“起立性貧血”他でした。いろいろ話を聴くと“自分は何事にも一生懸命頑張っているのに他人からは認めてもらえず自分の居所が無い”というのです。家でもなかなか自分を認めてもらえず心のもやもやが身体の変化として現れていたのです。私もどのように対処すればよいか分からず手探りの状態でした。子供の心の変化がマスコミに取り上げられ始めた頃でした。いろんな勉強会に参加して{良く聴く}事から始めました。いつも上から目線だった私には黙って聴くことは大変なことでした。担任や保護者の方と連絡を取り合い無事に卒業して、今は立派なお母さんです。近況報告も子供の成長を書いてくれます。

 *スキー合宿の出来事 私が高校に勤務頃の修学旅行はスキー合宿でした。三宮から臨時列車で松本まで、そこからバスで栂池スキー場まで、そして4箇所にわかれての分宿です。合宿ではスキーを午前と午後に、夕方には“もちつき”“雪像づくり”など盛りたくさんです。夜は各宿舎を廻り、生徒の健康をチェックし、風邪の生徒をひとつの部屋に集めて蔓延を防いだりしたこともありました。特にある年のスキー最終日のことは忘れられません。スキー用具を返すのに並んでいる時に“先生”といって倒れ掛かった生徒がありました。すぐにソリで彼の泊まっている宿舎に運んで近くにいた先生方と必死で熱くしたタオルで体をマッサージし、“眠らせてはだめ”とほっぺをたたき続けました。救急車を呼んでいましたが雪の中ですぐに来てくれるとは思えません。“体を冷やさない”“眠らせない”これだけしか私の頭にはありませんでした。他の生徒たちは帰る準備を、あわただしい時でした。救急車が到着し、教頭、担任、私が乗り病院に着き、診察が始まりお尻をだした時“冷たい”との声が出ました。お医者さんも“よかったなぁ、よく頑張ったね”と私たちにも声をかけてくれました。ホッとした時涙が出ました。帰りは別になるのを覚悟していましたが大町のホテルに着き、みんなと合流一緒に帰ることが出来て本当に良かったと帰路の電車ので他の先生方と喜んだことを覚えています。当の本人は何が起こったかのか全く覚えていません。今でも私は雪山の事故のニュースを聞くとあのときのこと思い出します。

15年間の葺合高校ではいろんなことを経験し学ばせていただきました。六甲アイランド高校に転勤して、葺合高校の反省などを新しいシステム作りの参考にしました。
葺合高校は今年から新しい校舎の工事が始まると聞きました。校門を入ったところの桜、いちょう並木などホッと出来るな所はどうなるのかなぁと少しさびしい思いもしていますが、新しい校舎での葺合高校がますます発展することを心からお祈りいたします。



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竹中常晃 先生


     △竹中常晃 先生       △夏!可愛い中学生達と

教員時代の思い出と退職後の私

 私が教師になりたいと思い始めたきっかけは、中学生時代の英語担当、軟式庭球部顧問の宮澤吉和先生との出会いによります。温厚で面倒見の良い先生で、尊敬の念を抱いておりました。ご指導頂いたソフトテニスは高校、大学、教員となった後も私から切り離すことのできないものとなりました。ソフトテニスを通じ、多くの先輩、後輩、友人、そして教え子達にも恵まれ、本当に幸せな人生であったと思っております。
 昭和42年大学卒業後、志望通り神戸市教育委員会に採用となり、神戸市立兵庫高等学校(定時制)に体育教員として就任致しました。6年間勤めた後、神戸市立須磨高等学校に13年間、そして昭和61年に葺合高等学校に赴任し、18年間勤め、60歳にて定年退職を迎えました。幸せなことに再任用制度にて更に2年間勤め、教員生活に終止符を打ちました。葺合高校では実に20年間という本当に長い教員生活となりました。
 私の公務分掌は大半が指導部であり、生徒指導、保健主事、指導部長を務めておりました。学年集会、全校集会等がよりスムーズに進行できるように指導、男子生徒の制服指導、遅刻指導、各行事の成功に向けての指導等々に取り組んで参りました。指導部の役割は各先生方の理解・協力を得て何とか全とうできたのではないかと思っております。一例を挙げますと、10年程前に提案・実施した遅刻指導です。本校では朝のS・Tを実施していない為、8時半の始業チャイムに駆け込む生徒が少なからず、1時間目の授業に支障をきたしている状況が見受けられていました。そこで、指導部のスタッフの中から、「予鈴の8時25分には登校しているよう、一時的に強い指導をしてはどうか・・・」 という提案があり、職員会議での賛同を得て実施いたしました。当初、難航するのでは・・と心配しておりましたが、それは無用でした。各部・各学年、指導部の実に精力的な指導がなされ、また、生徒達の理解と努力により、短期間のうちに見事に成果を挙げることができました。以後、生徒達の基本的な生活習慣にも良い影響をもたらし、それまで以上に落ち着いたいい雰囲気のいい学校になりました。改めて葺高生の良さを感じました。

 退職後の今、四季折々に様々な事を懐かしく思います。
 4月、グランドの南フェンス付近から六甲連山の萌黄色を背景にしたスタンド後ろの桜。
本当に見事でした。
 6月、県高校総体での各部の活躍。そして文化祭、皆生き生きとしていました。
 7月、球技大会も意欲満々な様子は見ていて楽しかったです。ソフトテニス部では近畿大会やインターハイへの出場もありました。
 9月、体育大会、プログラム1番の全校生によるラジオ体操。体育科の先生方の熱心な指導により、NHKで放送されているものより伸びやかで、動きも大きく、さらに力強く、全員が一糸乱れず演じていました。毎年スタンドから感動しながら眺めておりました。ご臨席の来賓の方々や保護者の方々も感心されていたようです。
 2月、卒業式。卒業生代表の答辞には思わず涙腺が緩んだ事を覚えております。
先生方の熱心な指導にきちんと応えてくれる葺高生は素晴らしいと思います。本当にいい学校で20年間も勤めさせて頂いたことに喜びと感謝で一杯です。

 さて、最近の私は、太山寺近くで観光農園を借り、野菜作りをしております。自分で作った野菜は美味しいですよ。丹精込めて漸くできた野菜も、スーパーでは一盛り百円前後の低価格、笑ってしまいます。
 そして、農園近くのテニスコートで活動されているソフトテニス・レディースクラブの皆さんと出会い、特別会員として入会させて頂き、週2回楽しく活動しております。更に週2回、ソフトテニス部の外部指導員として女子中学生を指導しております。いい生徒に恵まれ、神戸市団体優勝等、好成績を収めることができました。初めて中学生を指導して改めて感じたことは、葺高生がいかに素晴らしいかということです。
 また、これまで勤めた3校の卒業生から、新年会・忘年会・同窓会・OB会等、定期的な集いに誘って頂き、とても嬉しく思っております。教師冥利に尽きる楽しい思いをさせて頂いております。あとは家族を大事にしながら過ごしたいと思っております。

 最後になりましたが、葺合高校の校舎が約3年をかけて新設されるようですね。より一層素晴らしい学校になりそうです。竣工を楽しみにしております。葺合高校の益々の発展を祈念し終わりとさせて頂きます。

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石堂重本 先生


△盛り上がる葺高祭(校内祭)  △留学生たちと

葺合高校に幸あれかし

 この夏、車で灘警察署前の交差点で信号待ちをしていた時、葺合高校の制服姿の女子生徒ふたりがこちらに向かって手を振った。「あっ、石堂先生だ! せんせ~!」。彼女たちはそう言って満面の笑みで手を振るのだった。助手席にいた妻が、「教えていた生徒さん?」と聞くのだがその覚えがない。「授業は持ったことがないので、きっと国際科の生徒だな。」私は答えた。退職前の2年間、国際科長を努めていたからだ。「元気のいい生徒さんたちね。お父さんいい学校で仕事できたわね」と妻。「ほんまにそうやったなあ」と私。葺合高校を去ってから半年が経った。私の家は六甲にあるので、よく葺高生を見掛ける。まだ懐かしいというより葺合はどうなのだろう、改築準備は順調だろうか、といった思いの方が強い。
 葺合高校には18年間勤務した。私の教員生活の半分以上である。前半は主に指導部で、後半は国際科の発足と運営に関わる仕事が多かった。指導部での思い出は、生徒会担当教員として葺高祭を校内祭と一般祭の二日制にしたことである。当時の元気の良い生徒会役員に煽られる形で校務運営委員会に諮ったのだが、色よい反応がない。そこで役員たちと綿密な企画書を作り、文化祭に全力で取り組み楽しむことは葺合の校風に合っており、さらにいかに学校生活にも良い影響を与えるかを職員会議で訴え認めてもらった。葺高祭を自分たちの手で創り上げるのだと意気込んでいる生徒たちを見るにつけ、二日制にして良かったなあと思ったものである。
 国際科は皆様もご承知のように、竹内校長先生の時代に作った英語科を二クラスに改編、全県募集にしたものである。元々英語科の全県募集は葺合にとって悲願であったのだが、いよいよ小嶋校長先生時代に実質的な検討に入り、3年の後改編を決定。前々回この項を執筆された山﨑校長先生時代に具体的な準備を進め、さらに前回担当された油谷校長先生の時に第一回卒業生を送り出したのである。神戸市外からも多く集まった国際科は、はっきりとした目的を持った生徒が多いためか活発で万事に積極的だった。その新しいエネルギーが、元々あった学園生活を楽しむといった校風と相俟って、以前にも増して学校行事などを活性化させたのではないだろうか。学業も同様で、普通科、国際科共におしなべて意欲が向上したように思うし、進路実績にもそれが表れていよう。
 しかし、学校現場には学習指導要領の改訂や学区の統合といった新たな課題が待ち受けている。そして数年に亘る校舎の改築である。この課題をひとつひとつ乗り越えれば、きっと葺合はさらに発展するにちがいない。学校を去った私たちに出来ることは、唯々愛すべき学園とそこに集う生徒たちに幸多からんことを祈るのみである。

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油谷健夫 先生


△第44回生の卒業式での一こま  △第44回生が3年生の時の進路説明会

葺高・郷愁


 いろいろな中学校からたくさんの生徒たちがやってきた。麗しい日々は続き、三年の月日が経ち、彼らはこの地を後にした。皆そうだったのだ。いつの間にかやってきて、そして去って行った。人はかわり、場所は残る。花や木や校舎は人ほど変わりはしない。彼らが当たり前のように来た春夏秋冬。登校すれば意識もせずにフェニックスの木を見、時には瞳を上げて「知恵の壺」をいぶかしそうに眺めていたかもしれない。印刷室のところの油絵を横目にして、中庭に来れば、琵琶の木、樅の木などの下を通りながら、教室に入った日々。古い教室だったかもしれないが、彼らの「目的」も「努力」も「退屈」も「悩み」も、ほとんどがこの中にあった。今、校舎が生徒たちのあくなき足跡ですり減り、また汚れてしまっていても、それはある種の結晶であり、来歴だったのだ。
 学校という空間にはたくさんの思い出があろう。私が学年主任をしていたときも、生徒たちはよく中庭で談笑していたものである。昼休みにはカフェテラス状態でもあった。貴重な空間だった。また、ある日「野球部がガラスを割った」という連絡があり、「おお、そんな長打力のある奴が出てきたのか」と飛んでいけば、第二体育館のガラスだったというようなこともあった。音の思い出もある。見事な管楽器の音色が聞こえてきたので、誰かOBのうまい人でもきているのかと顧問に聞けば、なんとこれも私の学年の生徒がオーボエを吹いているのであった。一瞬一瞬の思い出が脈絡もなく、この中に残されている。が、それらは一つ一つ結実して来たのだ。本当にいい学校だったと思う。
  学校の校舎が建て替わると言う。実にやっとの思いだ。この古い校舎で葺合高校の生徒たちは、よく頑張ってきた。「人間」の勝利だと言えばそれだけのことかもしれないが、もっといい校舎で勉強させてやりたいというのは、長年の教職員共通の思いだった。校舎には、取り潰し、修理し、付け加え、入れ替え、実に様々な改修を繰り返してきた。配線に至るや、「伏魔殿」のようだと言っていたものである。新校舎ができて、設備がよくなれば、もっとすっきりして、充実した活動ができるだろう。
  ただ、少しノスタルジックに言えば、全部が残らないまでも、古いものも大事にしてほしいという願いもある。南門やグランドへ下りていくところの階段の一部は、戦前の校舎の遺構である。少々謎めいているのは玄関のところにある「知恵の壺」も随分古いものであることには違いない。現在の中庭は、兼松記念館の雰囲気を少しでも残そうとされた先人たちの思いが継承されている場所でもある。こんな母校に機会があれば誰に言うともなく、見に来る卒業生は多いのではないか。全国いや海外にまで散って行った卒業生たちには、そんなときに、何か拠り所になるものがあればいいと思うことである。

 写真は第44回卒業生が一年生のときに、中庭の土を入れ替えているところである。


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山崎秀昭 先生


△写真は昭和56年の社会科担当の先生方です。

葺合高校での14年

 制服姿の葺高生を見かけると、ふと葺合高校に勤めていた頃のことを思い出すことがあります。昼休みの時間、質問や相談に来る生徒たちで賑わう職員室の光景であったり、英語担当の先生方が英語で談笑していた光景であったり、思い出すことは異なりますが、その都度懐かしい思いで頬が緩んでしまうことが少なくありません。
 私が葺合高校で勤めていたのは昭和53年4月から平成4年3月までのことで、神田、竹内、難波、絹笠の4代の校長先生の時代でした。その後管理職を務めた期間を合わせると15年間になります。正直なところ当初はこんなに長くお世話になるとは思っていなかったが、一生懸命やれば応えてくれる生徒たちがいたことで、張りを失わないでやってこれた結果だと感謝しています。
 当時は大学進学を希望する生徒が年々増え続けていた時期で、赴任した頃はクラスに平均4~5人はいた就職希望者が、ほんの数年で学年全体でも4~5人程度になりました。進学向けの補習を希望する生徒が増えて、長期休業期間はもちろんのこと、普段もほとんど毎日、早朝と放課後、どこかの教科が補習をしているという状況になっていきました。進学実績も右肩上がりで、葺合高校の高度成長期が始まったという感がしました。
 中学校3年生の生徒たちに葺合高校を知ってもらうべく「学校見学会」も始まりました。現在ではどこの学校でも実施するようになっていますが、葺合高校「見学会」はそのさきがけでした。学校を紹介する映画を作ろうということになり、8ミリ映画の制作を担当させてもらうことになりました。「葺高の一年」というタイトルで、合格発表の風景に始まり 鵯越墓園での耐寒マラソンで終わる20分弱の間に、旧六甲山学舎での勉強合宿風景、部活動、体育大会・音楽コン等の諸行事、外国人留学生や外国からの訪問団との交歓風景などを織り込んだものでした。台本作りやアフレコなど多くの先生方に助けていただきながら、撮影・編集を含めて1年がかりで作りました。効果の程は分かりませんが、入学してきた1年生の生徒から、耐寒マラソンの風景が印象的だったと聞き、うれしくなって、毎年加除を加えていったことを覚えています。
 葺合高校から転勤した先は、二回とも教育委員会でしたが、一度目は葺合高校で教務の仕事をさせてもらい、生徒一人一人が個性を大事にしながら進路を実現するにはどんな教育課程が望ましいのか、多くの先生方と話し合えたことが二度目は「国際科」の立ち上げにかかわれたことが、いずれも役に立ったように思います。



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靱 眞一郎 先生


△靱 眞一郎 先生

思い出の先生方

 私が葺合高校にお世話になったのは、昭和51年4月からの17年間と平成17年4月からの4年間の計21年間になる。靱先生長いようで短い時間だった気がする。思い出をあげれば枚挙にいとまがない。しかし、何も分からない自分を育ててくれたのは、紛れもなく葺合高校であり、先生方や生徒達であった。ここでは、数学について、さまざまなことを教えていただいた先生方について話したいと思う。

 赴任当時の数学科には、神田校長先生をはじめ、梶田先生、村田先生等そうそうたるスタッフが揃っていて、こんな中で本当につとまるのかと不安であった。そんな気持ちをおもんばかってか、神田先生が授業を見せて下さった。文系2年生の授業だったと記憶しているが、サイレン(当時はチャイムではなかった)の鳴る前に教室に行くと、既に2名の生徒が黒板で解いていた。緊張感を伴いながらも、ゆったりとした感じの授業で、落ち着いた雰囲気であった。また別の日には、逆に私の授業も見ていただいて、励みになる助言をいただいた。自分の授業の目標を与えられた気がして少しだけ前が見えた思いだった。数学科の先生方や、若手だった者達と何度かお宅にもお邪魔をした。本当に面倒見のよい先生であったように思う。

 授業での最大の目標だったのは、村田先生である。先生は、一言で言えば、『職人』というような感じであったと思う。非常に情熱をもって生徒にあたり、熱く数学を語られた。3年生の学年を一緒に担当させていただいたとき、学年末考査で『2人で分野を分けて出題しよう』と声をかけてもらった。半分の分野を任された形で、少し認められたような気がしてとても嬉しかったことを覚えている。追いつきたい気持ちをもって汗を流した日々であった。

 もう一つは、若い先生方と一緒になっていろいろ試みたことである。まずは葺合高校だけの問題集づくりである。平常時の自学自習用であるとか、定期考査前や長期休暇中の復習用にとの目的で作製しようということになった。靱先生市販ソフトを使って、印刷原稿までを本校で作る。若手のリーダーであった山下先生や丸山先生に引っ張られる形で原稿作りに励んだように思う。後の校正・目次・ページ割り等も全てお任せしたのではなかったか。若い先生方を頼もしく感じた。また夏休みには、若手の先生方と一緒に旧六甲山学舎で授業に使うコンピュータソフトづくりなどもやった。楽しい思い出である。

 葺合高校の先生方は、熱い思いで教育に携わっておられる。生徒達はみんな素直で明るい。その上、葺合高校の生徒達は本当によく職員室に先生と話しに来る。質問に来る者、単に先生の顔を見に来る者、笑う者、泣く者、賑やかなことこの上ない。この交わり合いがお互いの成長を促し、葺合高校の教育を支えているのだと思う。今後もこのよい関係が続くことを願っている。



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桑山 孝造 先生


葺合高校に感謝

 葺合高校との関わりは突然のことでした。

 兵庫県立高校の教員となって3年が終わろうとしているとき、「お客様がお見えですよ」と言われました。保護者が来られたのかなと思いお目にかかると、当時の葺合高校の校長、安田善四郎先生でした。
「うちに来ていただけませんか。」
これが葺合高校にお世話になるきっかけでした。私も転勤を希望していましたので、その場で
「お世話になります」
と申し上げたのですが、葺合高校がどこにあるのかも知らずに返事をしたのを覚えています。そのときは、昭和50年4月から17年間もお世話になるとは思ってもいませんでした。

 たくさんの思い出のある17年間でした。多くの思い出の中から2つ述べたいと思います。

 4月になり着任すると、部活動の顧問として吹奏楽部を担当するよう依頼されました。さっそく練習している生徒たちの所へ行くと、2・3年生11名が仲良く活動している様子がうかがえました。その後、活動を続けていく中で部員も増え、神戸市などの様々な行事に参加し、多くの経験を積む事ができました。兵庫県代表として全国総合文化祭にも2回出場させていただきました。また、私自身も演奏者として卒業生と一緒に神戸市民音楽祭に参加し、優勝できたのは大変いい思い出となっています。

 吹奏楽部員たちとの様々な関わりは私にとって何ものにも代え難い宝となりました。先日、私の還暦を祝ってくれるということで、吹奏楽部の多くの卒業生達が集まってくれました。彼らとの関わりが私の教員生活の中で最も充実し、かつ楽しいものであった事を、その時に改めて感じさせてもらいました。

 社会の変化に応じて、学校も少しずつ変わっていきますが、葺合高校ではかなり早い時期から学校改革への検討、取り組みがなされてきました。授業形態の研究や生徒の希望による科目選択などが行われ、それらを基にした学級編成も考えられるといったことが取り組まれました。このような活動は全国的に見ても先進的なものでした。取り組みを検討する段階では日常的に様々な話し合いがなされました。私にとってこれらの活動が後に大変役立ちました。

 平成4年3月で葺合高校での勤務を終え、神戸市教育委員会に勤務しました。その頃、神戸市立高校を時代に合った形に改革していくことが企画されました。その第一号として新しいタイプの普通科高校を創ることになり、その準備を担当することになりました。このときです。葺合高校で話し合われ、知恵を絞った経験が大変役立ちました。新設校の準備を進めていく中で、新たな課題がいくつもいくつも浮かび上がってきました。そのたびに葺合高校での様々な取り組みの経験が、課題を解決していくのに大きなヒントを与えてくれ、2年間の準備で何とか開校にこぎ着けました。

 葺合高校を離れてからも、17年間で出会った生徒達・同僚の先生方との関わりが、私を支え勇気づけ続けてくれました。葺合高校に感謝。 

(桑山 孝造)


※桑山先生は阪神淡路大震災において写真を消失されたとのことで、
今回写真の掲載はありません。

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二宮尊志 先生


△1990年の夏(今は無き六甲学舎)にて

思い出

 「アメリカから帰って来た先生て、先生のこと?」シアトル市派遣交換教師としての一年を終えた34歳の夏休み、ズボンのすそをたくし上げ、汗みずくになって机の周りの整理をしていた私の所に、トコトコとやって来て尋ねた男子生徒。そうだとわかると、「普通ヤン」と独りつぶやきながら戻っていった。アメリカ帰りには何か特別な所があると期待していたのだろうか。9月にホームルーム教室に入ると、くだんの生徒がうれしそうな顔をして座っていた。

 今、振り返ると、次々と顔が浮かんでくる。最初の一年間を除いた総ての教諭時代に加え、教頭・校長としても勤めさせてもらった23年間。改革に取り組んだ担当教科の英語の授業に加え、ホームルームや部活動、その他学校生活の折々に触れ合ったそれぞれの生徒の皆さん。

 先に生まれた者として、教え、導き、立派な青年に育てようと頑張ってきて、ある時、ふと立ち止まると、教えて育ててもらっているのは私のほうだと気が付いた。以来、生徒と共に学び成長することに喜びを見出した。若者達は3年間で急激な成長を遂げて学び舎を後にして行ったけれど、年を取った私は同じように成長できたのだろうか。葺合高校を訪れて、校風そのままに、自由に活発に勉学と部活動を楽しみ、高校生活を満喫しているような様子を見るにつけて、教師も生徒も共に成長できているのだろうな、と思わずにはいられない。

 最初に述べた生徒も、もう50歳近くになっているはずだ。誰かに会えるかな、との期待を胸に、5月と6月の筒台会の集まりには参加させてもらっている。

(二宮尊志)

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大月民義 先生

△旧管理棟            △追悼式

紛争と制服と震災

  管理棟封鎖などの学園紛争1年後の昭和46年4月、ざわめきの鎮まらない講堂で着任式をした5人の内、私を含め4人までが中学校からの転補であった。このことは、市立高校から当時の葺合高に異動希望をする者が居なかったからである。と同時に、中学校のようなキメこまかく生徒に密着した指導が再建に必要だと安田善四郎校長が判断されたものと思う。

 着任すると、中庭には大きな立看板が掲げられ、色とりどりのヘルメットにタオルを首に巻いた生徒が「沖縄奪還闘争」をハンドマイクでがなりたてていた。受験教育を否定し、善意の補習や添削指導にまで反対される中で、再建のきっかけをつくったのが、松本武夫主任の学年であった。普通科高校に入学してきた生徒に、そこそこ希望の大学に進学させることが責任であると主張し、地道に学力向上に取り組んでいった。


 進学実績を積み上げていったが、世間の評価は「制服廃止」による「服装の乱れ」で芳しくなかった。神田民枝校長の「私服の指導に無駄なエネルギーを使うのを、なんとかしなければ」の強い決意を受けて、指導部を担当していたので制服問題にとりくんだ。生徒が要求して「制服廃止」になったのだから、生徒が納得して「制服復活」を決めさせるという困難な道を選び、根気強く生徒と話合いをした。


 新しい制服制度は竹内静夫校長着任の昭和55年4月から実施された。一般的に好評で、女子高校生対象のファッション雑誌にお洒落な制服として、新体育館の煉瓦色のアーチを背景に生徒の姿とコメントが掲載された。女子の制服はカッターを採用したので、襟がシャープで知的で活動的なイメージがあり、私は好きだった。その後、平成5年4月に校長として赴任した時、前年度に決まったといってブラウスに変えられ、生地が薄く黒ずんで見え、安っぽく見えるのが残念である。男子制服も、後任の福尾康之校長の時代に現在のブレザーになった。


  素直でおとなしい現在の葺合高校生を見ていると、落ち着いて勉学できる良い学校だなと思うが、一方、あの時代の熱気と行動力はどこにいったのかと思う。社会情勢の「時代の波」に翻弄されたといえばそれまでだが、ある部分では当時の生徒のエネルギーを評価していいのではないかと考えている。


 定年退職直前に起こった阪神淡路大震災では、3人の女生徒が亡くなるなど悲劇に見舞われた。校長室の床で寝ながら多数の避難住民への対応に追われたが、二宮教頭をはじめ、 教職員の皆さんが献身的に活動してくれたことは忘れられないエピローグである。

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梶田浩司 先生


   △ 昭和39年頃撮影     △旧校門(現南門) 正面に「総親和・総努力」の看板

葺合高校の今と昔



私が現葺合高校の前進神戸市立神戸中学校に入学したのは、昭和十五年四月であった。
 (中学二回生)戦禍が次第に拡がって、級友達は予科練(海軍の飛行兵)や特幹(陸軍の下士官)に進んでいった。やがて、五年生から陸軍士官学校(六十一期生)に入校して、終戦。娑婆に還ると、戦災で家族は母の郷里、金沢に住んでいた。その後、金沢高等師範学校数学科に進学して昭和二十五年三月卒業。

 神戸市教員となった。昭和三十三年四月、松浦校長に誘われて葺合高校に勤める事になって、以来二十一年間同窓生であって数学の教員として母校の為に尽した心算である。

 総親和・総努力の看板が神戸中の教育指針のように伝えられたが、宮地初代校長は、「剃刀よりも木刀になれ」と機会有るごとに説かれたのを今でも覚えている。これが校訓であったと思う。松浦校長は、宮地先生の教えを説かれたように、見えた。当時の葺合は、神戸大はおろか関学や関大にも一・二名が入れば良かったナア。となる状況に発奮した何名かの教員が、日夜頑張ったのを覚えている。神田先生や竹内先生のグループであった。

 私達の同級や先輩後輩は、時代柄軍関係の陸士や海兵の他、ナンバ1スクールと呼ばれた旧制の三高・四高等や大阪高校・姫路高校等に進んでいるし、官立の諸高校や高等工業・高等商業等はじめ私立の有名校にも数多く進学した。そんな先輩からみて、葺合の進学状況はお粗末そのものにみえていた。

 同窓生の教員たちは、事毎に同窓から何をしているんダ・・・とばかり攻撃されたものである。古い卒業生たちの批判や言動は、同窓ゆえに手厳しく歯に衣を着せぬ率直な言い方であった。時代の流れとか、周囲の情勢などは何の言い訳にもならない当然の表現であったのである。これも母校愛の一つである。

 葺合高校の進学状況がまだまだ不満があるけれど、古い先輩から何とかお許しが得られるようになったのは、ごく最近のことであると思うが神戸中学の伝統と誇りはそう簡単に妥協出来るものではない。神戸一いや兵庫一より日本一の高校になることを、先輩のひとりひとりは望み願っているのである。

 現在の葺合高校に関係する教職員・生徒諸君がこうした歴史と伝統を見つめて、今こそ昔流にいって切磋琢磨し努力の限りを尽くして、お互いの関係者同志が葺合人だから・・・というだけで、その人をよく知らなくても、即信じられるそんな、お互いに信頼感のもてる人間関係を育てあげる様な、学校で有るようにしたいものである。

 次の方の指名ですが、本来ならば一つ後輩の広瀬典男先生にお願いしたいのですが、早くに他界しておられるので、すこしとびますが、指導部や紛争時に道を開いて下さった、大月民義先生を指名申し上げます。よろしくお願いいたします。


△ 神戸一中名簿           △旧葺合高校中庭風景



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竹内静夫 先生




昭和33年               昭和34年
△ 再度山青少年の家で学年合宿のとき   △ 授業風景(授業中生徒が隠し撮りしたもの) 


昭和35年
卒業式のあと、神田先生と


葺合高校と私

 人生にはいろいろな出会いがあるが、私にとって葺合という高校との出会いは格別のものがある。昭和31年に丹波篠山から戦災の跡がまだ残っているこの学校へ赴任してから、教員として14年、十数年後校長として7年、計21年もの間お世話になった。「生涯一教師」でありたいと念じている私だが、三十代の初めからこの学校で育てられ、鍛えられ、今日あるといってもいい。血気盛んであった三十代、生徒たちも元気だった。彼らと組んずほぐれつ、鬼の異名を奉られ、ともに笑い、ともに泣いたあのころはまさに私の青春時代だった。

 校長として帰ってきて、7年という長い期間仕事をさせていただいた。個々の生徒と向き合うよりも、学校として向かうべき方向を定め、先生方とともに学校を推し進めるのが私の責任だった。卒業式の式辞で話した「自主の人たれ」「創造の人たれ」「世界の人たれ」の言葉が今なお教育目標として受け継がれているのはまことに嬉しいことである。

 △昭和55年 校長時代

 いま、教育界は時代の急な変化の中で激しく揺れ動いている。とりわけ、産業界の結果主義、業績主義を安易に取り入れ、進路もスポーツも結果の数字だけを重視する傾向がますます強くなっている。葺合高校は、生徒一人ひとりの個性に応じて、精一杯力を伸ばし、夢を実現させてくれる学校であってほしい。そして友情を大事に、ともに支えあい、鍛えあいつつ、かけがえのない青春時代を送らせたい。「友の憂いにわれは泣き、わが喜びに友は舞う」こんな友情が育つ学校であってほしい。

先日の体育大会は元気いっぱいでありながら規律正しく、溌剌として実にいい大会だった。先生方の日ごろの指導に感謝しつつ、葺合高校を誇りに思ったことだった。
 葺合高校の今日は、よき伝統を守り育ててきた教職員、支えてきたPTA、筒台会、筒友会の努力と協力の賜物である。とりわけ卒業生の皆さんの底力は大きい。ときには後輩を叱咤し、学校を激励してほしいものである。

私も歳老いて気力はさておき、体力は衰えてきた。しかし、筒台会総会、クラス会で、皆さんと声張り上げて「朝雲巻く嶺を・・」と校歌を歌いたい。また「春爛漫と・・」と生徒歌を怒鳴りたい。そして遠からずやってくる最期のときにはなつかしい、そして荘重な調べの校歌であの世へ旅立ちたいと念じているこのごろである。

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神田民枝 先生


「昔の教師から」

今年六月の筒台会総会に出席したら、きれいな大きな花束をいただいてしまった。


 私の米寿のお祝いといわれて、びっくり、恥ずかしくも嬉しくもあり、いつの間にかこんな歳になって、改めて皆様に支えていただいてここまでこられたことに感謝の思いでいっぱいであった。


 本当にありがとうございました。


 思い返せば私は、昭和32年から55年まで23年間も、授業を楽しませていただいた。


 先生方や皆様のご協力のおかげである。自習時間がでると補講にいって、嫌われたことも多々ある。でも、学校の柱は学ぶことと信じて曲げたくなかった。 さて皆さん、葺高玄関にある“智慧”の壺のことをご存じですか?


 国立神戸高商のあとに葺高が建ったことは、ご存じでしょう。その高商の建築物は現在は南門だけになっている。私が来たころは、兼松記念館と称するアーチ型の枠のある廊下に囲まれた中庭と言った生徒たちの憩いの場を持つ管理棟があった。中庭では昼食時いつも生徒たちの歌声が響いた。 (筒台会情報のページに掲載中)


 昭和50年頃その建物が危険だと取り壊しがきまった。高商時代の研究棟であったので、当時、高商の卒業生をお招きしてお別れ会を開いた。おいでくださった、明治生まれのかたがたのお話の中に、玄関の屋根の上の壺を (写真1) “智慧”の壺というとのお話がでた。でもそのいわく因縁はご存じなかった。そのご、竹内先生も随分お調べいただいたがわからず、そのままになっている。わからないのが幸いと私は学んで蓄えるための壺と解釈して、葺高のシンボルとして新体育館の壁 (写真2) にとどめていただいた。そして、兼松記念館に使われていた御影石をそのまま廊下に使っていただき、学問の府のアーチ型の面影を体育館の廊下に残していただいたのである。


 ご理解くださった施設課のかたがたにいまも感謝している。 そして、このことを皆様にも知っていただきたいと思って、今日のお便りにした。新旧玄関の壺の写真を、ごらんいただきたい。葺高の歴史をとどめている。


 筒台会総会に出席するたびに、珍しい卒業生とお目にかかれる。溌剌とした今の葺合高校を喜びつつ、さらに、さらに 皆様のご活躍をお祈りしたい。

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